謹賀新年


 年頭にあたり次のことを指摘する。それは蛸壺思想からの脱却が問われていることである。例えば、食と農と福祉を同列で並べて検討されることはなかった。それぞれの領域が蛸壺のように閉塞感に埋没してきた、このことからの脱却が問われている。

農業と社会福祉における構造疲労
 戦後の社会システムの基礎を成してきた農林水産業は、グローバリズムの進行によって変容が迫られている。それは、主として護送船団方式としての政策(租税依存)に依存した体質があるからである。今日的には、農林水産の生業は、食や環境や観光と連携した六次産業化が求められていることの背景である。
 同様に社会福祉も、護送船団方式としての福祉政策に過度に依存して、租税の配分に依存しきった既得権益に埋没している。この税依存体質は、社会保障制度の財源問題として課題となっている。しかも、少子高齢化の進展は社会保障財源自体を脅かしている。
 この農業と社会福祉の領域には、同じ体質があるといえるのかもしれない。それは戦後システムの構造疲労として捉えることができる。本邦の社会システム全体が構造疲労をおこしていると言い換えることができる。
 
農業と社会福祉におけるポストモダン(英: Postmodern)
 『ポストモダンの条件』(1979年)を著したリオタールによれば、「ポストモダンとは大きな物語の終焉」として提起されている。このことはモダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った(と思われた)時代として捉える思想運動の中で指摘された。大きな物語の終焉は、我が国独自の農林水産・社会保障の根底を問うているといえる。
 還元すれば、今日的な農業と社会福祉の領域は、新しい思想を持ったビジョンが求められている。単なる変革ではない新しい潮流は、租税の配分に依存しきった体質自体を変革することを求めている。このことが農業と社会福祉におけるポストモダンである。

農業と社会福祉の総合化という視座
 単なる農林水産改革や単なる社会保障改革など領域主義を超えて、総合化する視座が求められることはポストモダンの課題からも理解できる。縦割り構造や縄張り意識という既得権益に安住するという姿勢では新しいビジョンは見えてこない。農業と社会福祉の領域を比較検討し総合化することで、コミュニティという空間の‘暮らし’が見えてくると考えている。あわせて、‘食’という生命の糧の価値の交換という‘暮らし’の維持が加わることで、新しいポストモダンを見渡すことができる。

コミュニティという空間は、食と農と福祉の協働作業で成立
 基本的に食(暮らしの糧)と農(暮らしの生業)と福祉(暮らしの相互依存)の協働は、地域社会(集落や里山)を構成してきた歴史がある。それぞれのコミュニティを単位とした小さな物語が求められている。この小さな物語は、地方創生という方向とも一致する。食(暮らしの糧)と農(暮らしの生業)と福祉(暮らしの相互依存)の協働によるイノベーションは、小さな物語を限りなく積み重ねて、人間味がある‘安寧な暮らし’というコミュニティ観を見出すこととも一致する。

食と農と福祉の協働と小さな物語の成功体験
 小さな物語の成功体験の積み重ねは、地域社会の再生の原点である。この成功体験の積み上げなくして地方創生はない。ただし、観光という名の小さな物語や、食の六次産業化という名の物語など、縦割り縄張り意識に苛まれた物語は長続きしないことを危惧している。食と農と福祉と観光と教育などの多くの領域での協働というイノベーションを基本とすることが必要である。すなわち縄張り意識や過度な専門性からの脱却である。その理由は、個々の‘暮らし’の社会関係や人間関係は、縦割り縄張り意識等は必要としていない。もちろん、コミュニティという空間も社会関係や人間関係の束であり、縦割り縄張り意識は排除する必要がある。

分析と展望
 ‘小さな物語’は、ナラティブ・アプローチという方法から欧米では語られます。
 ナラティブ・アプローチは、‘ナラティブ’という物語性を持って対応します。
 大きな物語は、国や世界的な政策など成功と失敗が明確です。
 ところが、コミュニティを単位とする地域社会では、
 この‘小さな物語’は、循環すると考えることが特徴にあります。
 成功と失敗は、小さな物語では、表裏の関係にあります。
 場合によっては、成功と失敗が循環するのです。
 場合によっては、小さな物語では、時間列で繰り返されるのです。

 このナラティブ・アプローチには、ストレングスン・モデルがあります。
 観察者からみて、対象者や地域社会の変革を図る時に、‘ストレングスン’という対象の強みに着目します。

 ややもすると、対象者や地域社会の‘弱み’や‘弱点’に目が行きがちです。
 それを、対象者や地域社会の‘強み’を探して、小さな物語を創り上げます。
 ‘豚も煽てれば木に登る’とたとえです。
 一見すると失敗事例は、ダメと切り捨てることになりがちです。
 世界的な政策や国や県の段階では、ここで終わります。
 だから、プラン・ドュウ・スイという政策評価が重要視されます。
 PDCAサイクルというものです。
 私たちが対象とする社会福祉の弱い立場や、政策的に遅れている自治体は、PDCAサイクルだけでは、評価できないとナラティブ・アプローチでは、
考えます。

 あくまでも、対象(利用者や地域社会)は、小さな物語という経験の積み重ねが重視されます。
この‘経験’の積み重ねを重視してください。

 地域社会は、‘社会関係や人間関係の束’です。
 これは、フランス構造主義運動による考え方です。

 ‘社会関係や人間関係’を着目してアプローチします。
 これは、コミュニティワークと手法として歴史があります。
 ‘地域社会を耕す’ことです。
 ‘社会関係や人間関係の束’に働きかけることは、ナラティブ・アプローチには、ストレングスン・モデルが有効です。
 ここでは、時間軸と経験が重視されます。

 ポスト・モダンでは、社会構成主義・社会構築主義など展開されました。
 とくに、リオタールは、大きな物語と小さな物語とに分けることで整理しました。

 最近の米国のマイケル・サンデルは、熱血教室で著名になりました。
 サンデルは、地域主義者です。
 彼の主張は、‘多様性’です。
 地域社会や人種や国家の段階では、多様性を重視することを指摘します。
 簡単にいえば次のようにいえます。
 米国の常識は、イスラムでは非常識と極端ですが考えます。
 東京の常識は、田舎では非常識とも考えます。

 成功事例も失敗事例も、多様性があります。
 一過的に、成功事例が新聞報道されたりする。
 全国から見学者が殺到する。
 その成功をコピーする。
 成功事例を成功と決めつける。
 しかし、10年後にアプローチをすると劣化していることがあります。

 我々は、成功と失敗という二分化して整理はしません。
 梶山様の指摘のとおり、失敗事例にこそ、宝がある場合があるからです。
 私の専門であるコミュニティワークは、ナラティブ・アプローチを重視します。
 ストレングスン・モデルを重視します。

 もちろん、欧米では、コミュニティワークは、社会福祉の専門用語ではありません。
 地域を耕す技術なのです。

 私が危惧する地方再生事例では、観光に着目した成功事例や、食の六次産業化に着目した成功事例は、町おこし、空き家対策や空き店舗などタテ割り手法の成功事例は、長期的なは維持されないことを危惧します。

 食(暮らしの糧)と農(暮らしの生業・役割)と地域福祉(暮らしの相互扶助)の協働は、もちろん、国家責任(税の配分)の放棄には注意しますが、この食や農林水産や福祉の協働というイノベーションを期待しています。
 私は、イノベーションを‘再・結合の循環と変革’と訳しています。
 変革の循環です。
 ここに物語性があるのです。
 食や農林水産や福祉の協働というイノベーションから、起業を誘発させて、地域社会や弱い立場の方の空間を耕していきます。
 一見、迂遠で気の遠くなる作業です。
 特に、‘福祉’を組入れないで、地域おこしの成功事例だけに着目した場合、高度成長の時代は、これで良かったのかもしれません。
 しかし、少子高齢社会という‘成熟社会’では、‘地域福祉’の視点を組み入れないと、維持継続しないと考えます。

 視点を変えると、租税だけに依存しないモデルが必要だと思います。
 お金が無くなったとたんに、埋没することが多いからです。
 しかし、重篤な課題の解決は、公的責任です。
 一般的な課題の解決は、補助金依存が一番危険です。

 地方創生のモデルも、補助金依存が一番危険です。
 しかし、公的責任との切り分けが必要です。
 コミュニティ・インボルブメントという手法があります。
 地域社会の人間関係や社会関係を巻き込む手法です。
 住民を巻き込むことが不可欠なのです。
 先ほど、地域社会は、人間関係や社会関係の束と考えますと指摘しました。
 この‘関係’に着目した地域創生が必要だと強く主張します。

 最後に一言。
 一番劣化しているのは教育です。
 蛸壺研究の代表は、教育機関です。
 特に、国公立の大学は・・・・。
 現代教育のナラティブ・アプローチによるイノベーションが必要です。