米価と地域福祉

米価や農業について考えるところが多い日々です。

自ら生産手段を持ち、生活の糧を直接得られる農業は、大地に汗をして耕すことで支えられる暮らしは、素朴な暮らしとして評価され直してきている。そのような現象を歓迎したい。そのような風潮を田園回帰と呼ばれているようである。

今年の新米をいただき日本人に生まれてよかったと思う秋である。麹に代表される食材や秋刀魚など米食は生きることを支えてくれる。

今年の米価は、この数年の豊作などによって、余剰米が倉庫に山積みされているために価格が不安定なようだ。具体的には、農協が買い取る価格が暴落していているようである。銘柄米によっては、昨年度産のブランド米の価格が新米より高いという。

私の専門は地域福祉であるために、米価や農業については素人であって、無責任な発言は控えたいと思う。しかし、棚田やだんだん畑という里山の風景は、稲作文化によって作られてきた。動植物の生命もそれによって支えられてきた。人々も、安心して人を愛して、働き、子供を育て、最後の時を迎えられる風景は、この里山であろう。地域福祉は、自宅で安寧な時を過ごして、畳の上で大往生が基本にあるように思う。けっして、病院や施設での最後の時を迎えることを否定はしないが、私は好まないと言ってきた。

素人考えであるが、米価の不安定な状況は、戦後の政治の産物であって、里山の農業は、兼業農家と高齢の専業農家という、細い糸の上にあるように思うし。戦後の農業の御用船団方式は、維持できなくなっいいると思う。

里山と里海の暮らしは、地域福祉の産土(うぶすな)だと拙著で明記してきた。私の地域福祉観は、ここにある。祖税に依存した社会福祉の護送船団方式も、農業の護送船団方式も、本当の暮らしを維持継続はしないといえる。税に依存しきった農業や社会福祉は、もしくは社会保障は、我が国の国債残1000兆円という状況に貶めている。

米価と地域福祉は、一見関係はないといえる。しかし、里山と里海を見直したいと思う最近の私の気持ちとして、米価低迷を地域福祉の視点から考えてみたいと思う。すこし学ばなければならない。あらためて記述してみることとしたい。